記憶の記憶(おまけ)

2015.09.23 Wednesday

 



そういえば。
 
2013年、Port Jurneyに参加することになりメルボルンに2週間ほど滞在した。
滞在中、宿泊していたシェアハウスと活動拠点にしていたWest Spaceとを毎日往復していた。
75番のトリムで「Riversdale Rd」から「Russell St/Flinders St」まで。片道約30分。
 
その移動時間で読んでいたのが『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(著・近藤史人)だった。
たぶんその時期に受けていた、村田真さんの近代日本美術史の授業(@chap)が影響して、古本屋で購入したのだと思う。
 
メルボルンのトリムに乗りながら、パリに渡った日本人のノンフィクションを読む。
前半は自分がかつてパリに滞在していたころを思い出し、狭く騒々しいあの独特の空気を懐かしんだ。
ふと、本から顔を上げれば目の前にはメルボルンの街並。
「ここどこだべ?」と思う。
なかなかのこんがらがり具合が楽しい。

しかし後半以降は、戦争画とそれに翻弄された人々の苦悩が続く。
読んでいるあいだ息苦しく、自分の眉間に皺が寄っているのがわかる。
そして藤田の晩年の沈黙。
夜更けのメルボルンのトリムで、パリの暗く刺さるような冬が蘇った。


メルボルンから帰国後、しばらく経ってイシグロの『浮き世の画家』(訳・飛田茂雄)を読んだ。
当時は主人公である小野と藤田のイメージがかぶり、そのことばかりに意識がいっていた。
けれど去年、もう一度読んでみたら読み終わった後の感触がだいぶ違った。
 
前回はそうでもなかったのに、小野の自分の記憶を探るときに語る言葉が妙に引っかかり、
たびたびイラっとなる。
人が自身の過去を語るときのいい加減さ、調子のよさ、残酷さが細かく描かれていて、
まるで大きな姿見を向けられているような、居心地の悪さを強く感じた。
小野がやってきた内容よりむしろ、小野の語りそのものが読みどころとなった。
 

帰化したフランスで自分を追い出した日本を思う藤田氏。
幼少期に移住したイギリスで日本を描いたイシグロ氏。
二人の想像を想像してはいい加減に記憶する私。

各自、異邦人について想像力を総動員。
それだけが共通の体験。
 




 






 
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